ボランティア・ミニスターの災害対応:ポルトープランス総合病院

1月13日のハイチ大地震により20万人以上が死亡し、推定30万人が負傷し、迅速な対応が必要とされ、ハイチの医療施設では対応できずにいました。準看護師と救急救命士の資格を持ち、サイエントロジーのボランティア・ミニスターのアヤゥ・リンデマンは、その災害に迅速に対応したひとりでした。救助活動のベテランである彼は、「9・11」のビル倒壊現場や、2005年のハリケーン「カトリーナ」での経験がありましたが、ポルトープランス総合病院に到着してまず目にした状況は、彼の想像をはるかに超えていました。

ハイチでのアヤル・リンデマン
医師たちは手術室で命を救うために奮闘していました。麻酔も滅菌もできず、最低限の薬剤や道具さえない状態で手術を行っていました。リンデマンともうひとりのボランティア・ミニスターでカリフォルニアの歯科医で医師のダレル・クレイグは、支援できることはすべて行おうと、すぐに仕事に取り掛かりました。初日が過ぎ、リンデマンとクレイグが知った事実とは、患者の処置に昼と夜の交代が全くできず、4つの病室に重体の患者を40人収容し、徹夜で処置せざるを得なかったことでした。

彼らは排泄物と血で身体が汚れたままシーツもなくベッドに横たわっている患者を見付けました。そこでは、1時間経つ間に3人の患者が亡くなり、多くの患者が処置されずに命を落としかねない状況にありました。彼らは翌朝8時に国際医療隊が到着するまで夜を徹して働きました。その夜、2人の患者が死にかけていました。ひとりは点滴が外れたままで出血多量で死にかけ、もうひとりは肺に水が溜まったままで死にかけていました。

夜の病棟には他の困難もありました。停電になり、リンデマンとクレイグは懐中電灯のもとで患者に処置せざるを得なかったのです。しかし軍医が、化学反応だけで発光するプラスチックのチューブのようなものを彼らに与えたので、停電が復旧するまでの5時間はそれでしのげました。

多くの患者がいるにもかかわらず、医療の専門家はとても限られていたので、処置の大半は患者の家族が手伝っていました。食料もまた不足していました。その家族のための食料が全く無いだけではなく、その患者のための食料も全く無かったので、リンデマンとクレイグはその患者とその家族のために食料と水を手に入れてあげました。

ある夜、ある患者が呼吸器系と心臓の深刻な症状に陥りましたが、そこにはそれを切り抜ける薬剤も酸素も全くありませんでした。そこにいたロシア人の医師とアメリカ陸軍の従軍外科医であった緊急治療室の医師は、彼らが持っていた医薬品をその場で調合し直しました。そしてその患者が助かるのに必要な外科手術を受けるために合衆国へ飛行機で移送されるまで、彼らは共にその患者の命をつないだのです。

病室にいたある若い男性は、足を切断しなければ死んでしまうだろうと告げられました。片足になってまで生きたくはないと言って、彼は手術を受けることを拒みました。リンデマンは彼に穏やかに彼に語りかけ、彼がその選択肢に目を向けられるように手助けをしました。結局、彼は生きることを選び、その手術を受けることができました。

リンデマンは外科手術を補助していました。その若い女性は腹部の出血を止める医療器具(かんし)が全く無いことで命が危ぶまれていました。リンデマンは自分のレザーマン(アメリカ製の多目的ツール)をかんしの代わりに使うことで、付近に停泊していたアメリカ海軍の病院船へ彼女を死なせずに移送できるようにしました。

リンデマンのチームはその後3週間、総合病院で働き、一晩に50人、多い時で300人の患者の処置を行い、24時間勤務することもよくありました。その後、病室の衛生状態は良くなり、照明も改善され、スタッフは日勤と夜勤に分けられました。

その仕事は続いています。ボランティアたちが帰国し始めるにつれ、さらに多くのことが救援活動に必要となっています。この活動は半年ないし1年は続くだろうと国際赤十字の事務局長は予測しています。